誰もあなたの教祖にしないこと

いらっしゃいませ。
本日は、スピリチュアルに関わる立場としてお伝えしておきたい大切なお話です。
あなたの人生をあなたの責任において生きていくため、誰からも搾取されないための大切な内容となりますので、是非読み進めていただければと思います。
私はとある事情で幼少期から「宗教を盲信している人たち」を非常に多く見てきました。
この事情についてはいずれ書くので今回はサラリとだけ触れておきます。
とにかく「何かを崇めている人」を、それはもう数えきれない程見てきました。
彼らは権力や肩書きにも弱いという共通点が有りました。
頭の良し悪しについて語る際には学歴を用い、医者や政治家をプライベートでも先生と呼び、大企業に就職することを誇り、下から目線で讃えました。
彼らにとっての立派な人というのは、ある種の権威性を持っている人でした。
その当時は上手く言語化出来なかった違和感が何なのか、今の自分には解ります。
それは、彼らの価値観は誰かから貰ったものであるということです。
自分の経験や信念、こだわりから考え抜いて辿り着いたものではないのです。
よく「何故、頭の良い高学歴の人間があんな宗教にはまったのか」という言葉を聞きますが、高学歴信仰や大企業病と宗教というものは、私からすれば親和性が高すぎるので何の疑問も抱きません。
占い師に依存する人たち
占いを受けて当たっていたら「この人はなんだか特別な人」と感じてしまうと思います。
私自身、依存されそうだという気配を感じることは何度も有りました。
ある人は私が言うことであれば全て正しいという前提で、私のことを見上げようとしてくる。
全て占いで決めて欲しがる。
こうなった人の人生がどうなっていくのか幼少期から見てきましたが、ほぼ例外無く自分の人生を生きられなくなります。
私の占いのスタンスは「その人自身が自分の手で幸せを作っていけるようにサポートすること」「そこに至るまでの道のりの途中で前を向けなくなった時にケアをすること」だと考えています。
いつか離れていくのだと思っていますが、その人が幸せであればそれで良いのです。
ですから依存の気配を感じた場合はただちにマインドの持ち方について説明をします。
しかし、占いを受ける側は純粋に「この人は理屈では説明できない何か特別な力が有る」「神様に選ばれた人なんだ」と感じています。
あなたにもこんな気持ちが生まれた時に、このセリフを自分に言ってみて欲しいのです。
「でも、誰も私の教祖にはしないよ」
自分で選び、自分で決断し、行動するのです。
不安で占いに頼る日が有っても、現在地を確認したい日が有っても良いんです。
大切なことは、あなたが必要以上に誰かを崇め、見上げ、教祖にしないということです。
自分の人生のハンドルは誰にも委ねないことです。
他人を見上げるということは、自分を低く見積もるということ
しかしながら、自分の本心が解らなくなっている人も多く居ます。
見分け方のヒントとしては、「自分を言い聞かせなければ決められないかどうか」ということです。
本心からあなたが「それだ!」と思い、ワクワクしたり明るい気分になれるのか?
それとも、モヤモヤする気持ちが有るのか?です。
自分を納得させる努力をしなければならない時点で、それはもう本心が拒否しているということです。
これに気付いた時は自分を褒めてあげて下さい。
あなたの人生にあなた以上の正解は有りません。
他者の人生を破壊しない、搾取しないということさえ守れば、あなたの人生においてはあなたが絶対的な正解なのです。
多くの人は自分より「格上」というものが存在していると思っているようですが、そんなことは有りません。
皆、誰かより出来ることと出来ないことが有り、誰かよりも知っていることと知らないこととが有る、それだけです。
他人を見上げて正しさの基準にするという行為は、自分を低く見積もるということに他なりません。
その姿勢は「誰かを自分より低く見積もる」、または「誰かから見下されてカモにされる」という現象に発展しやすいので、結局誰も幸せにはなりません。
純粋な尊敬の念とは全くの別物です。

誰の信者にもならない
占いを受けるにしろ、何らかのセミナーに参加するにしろ、それはあなたが内観するための材料を得る機会であり、あなたの教祖探しの場にしてはいけません。
あなたが人の親になるのであれば尚更です。
自分の価値観は自分で作りましょう。
それを放棄するとあなたは何も生み出せなくなります。
人の価値観を借りなければ誰とも話せなくなります。
そんな自分を余計に小さく感じて恥じるようになり、更に他の誰かを盲信します。
自分を導いてくれる指導者が居て、自分はそこについて行けば幸せになれるんだ、という時代は大昔に終わりました。
今は個人の幸せを追及する時代です。
誰もあなたの教祖にする必要はなく、誰の信者になる必要も無いのです。