感情がおもてに出過ぎて困る

いらっしゃいませ。
あなたは、不機嫌、無気力、悲しみをダダ漏れにしている自分に疲れてはいないでしょうか?
または、日によって浮き沈みが激しい同僚や家族、友人にどう接すれば良いのかお悩みではないでしょうか?
今回は、何を隠そう感情が顔に出過ぎる自分に困り果ててきた私が見つけた落としどころをお伝えしたいと思います。
感情を出している側も、実は自分の行動に傷ついています。
不機嫌な時は不機嫌をダダ漏れにしてさぞいつでもスッキリしてストレスフリーなのでしょうね。と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、それは大きな誤解です。
その理由についても触れていきたいと思います。
社会不適合者?
社会には「大人であれば、いつでもにこやかにし、本心は隠すものである」という暗黙のルールが存在しているのは周知の事実だと思います。
ですから大人でそれが出来ていない人というのは幼稚であるとみなされます。
「恋人と別れて胸が張り裂けそうに痛く、気を抜くと涙が出てしまいそう」であっても、「家族を看取って笑顔なんて作れない程意気消沈している」日であっても、です。
いや、もしかしたらこれ位解りやすい理由であればしばらくは理解してもらえるかもしれません。
しかしこれが「生理痛で辛い」「片頭痛で視界がクラクラしていて笑えない」「理由は解らないがとにかく悲しい(PMS含む)」「日頃のストレスが溜まりに溜まってイライラが止まらない」となったらどうでしょうか?
「なんだそんなことで」と思われるのがオチではないでしょうか。
そしてそんな自分自身にもこう思うのではないでしょうか。
「なんでこんな事位で私は笑えなくなるんだろうか。社会不適合者ではないだろうか」
実は、私は長い間自分自身の事をそう思ってきました。
今はある程度折り合いがついたのでそうは思っていませんが、かつての自分のような子と出会うと、同じように苦しんでいる事がよく解るのです。
機嫌でしか気持ちをアピール出来ない
感情がおもてに出てしまう人というと、怒りっぽく攻撃的な印象を持つかもしれませんが、「明らかに機嫌が悪いのだろうが(もしくは元気が無いのだろうが)何も言ってこない」という人達が居ますよね。
何も言わないならあと一歩笑顔で居るという選択は出来ないの?と感じるかもしれませんが、彼らは「自分の機嫌でしか気持ちをアピールする術を知らない」可能性が有ります。
特に母親が気分屋だった場合、無自覚にそのクセをコピーしている可能性が高いので、今回のテーマに当てはまるという方は一度、ご家族の中に「機嫌で場の空気をコントロールしようとする人」が居なかったかどうか、考えてみてください。
子供だったかつての自分はどう感じていたでしょうか?
困惑しませんでしたか?
それと同じことを大人になった今、周りに対して行っているのです。
というカラクリが解ったとしても、即日自分を変えるという事は難しいです。
余計に「私はなんて幼稚なんだ」と自己嫌悪に陥ることでしょう。
不機嫌や悲しみや体調不良を撒き散らす人は、その度に自分にガッカリしています。
そして周囲からきっと幼稚な人間だと思われているに違いないと考え、人に対しても敵意を向けやすくなります。
やがて感情が落ち着いた時には大切な人間関係を壊している事すらあるのです。
当人にとっても大問題なのですが、では何故そんな状態を続けるのでしょうか。
もしも家から出なくて良いのなら
もし、機嫌が悪い時、テンションが低すぎて人と目も合わせたくない時、体調が優れない時、自室から出ずに過ごしても何も心配要らないし誰にも迷惑をかけないとしたら、それでも外に出るでしょうか?
会社に行くでしょうか?
行かないですよね。
つまり、その「感情や体調をダダ漏れにしている人達」は、本来であれば人前に出る状態ではないのに外に出ているのです。
何故か。
生きる為です。
お金を稼ぐため、誰かを食べさせる為、将来の為、全ては生きる為です。
その責務も義務も無くなれば、不調な時は好きなだけ寝ているでしょう。
特に「一人暮らしの独身者」は、頼れる存在が居ません。
自分の稼いだお金が全てであり、自分が倒れたらそれは最悪の場合「死」を意味します。
ですから機嫌が悪かろうと悲しかろうと、会社に行かなければなりません。
そうしなくては生きていけないのです。
そこで出てくるのが究極の二択です。
一つは「社会人として、大人として、幼稚と言われようが自分を生かす事を優先する」という選択。
二つ目は「好ましい大人として無理をして振る舞い続けるが、壊れてしまうリスクを負う」という選択です。
私は一つ目を選んでいただいて結構だと思っています。
自分勝手だろ!と感じる方も居るでしょうが、ではこの人達を養えますか?
私は無理です。
だからとがめられませんし、自分を生かす事を最優先していただきたいと思います。
それで良いと思うのです。
大人が最優先しなければならない事は、良い人で居る事ではなく「自分で自分を生かすという責任を全うする事」だと思うからです。
誰もが自分を一番に労い、愛し、慈しみ、優しくして欲しいと思うのです。
人の機嫌を気にするのは問題無いのか?

実は私は他人の機嫌がほとんど気になりません。
昔は顔色や言動が本当に気になってしょうがなかったのですが、先述したように「自分を生かしていく事を優先する」と決めてから、ほとんど気にならなくなりました。
これはどういう事かというと、「人は自分に禁止している事を他人がしていると気になる」という原則が働かなくなった為です。
自分がいつも笑顔で無理をし続けるという選択肢を捨てた為に、他人がどのような表情で仕事をしていようがどれだけお天気だろうが、ほとんど気にならなくなりました。
世の中、人の機嫌や顔色を気にし過ぎる人が多いです。
そしてその人達の多くは「自分も他人に感じ良くするのがマナーだ」と思い、それを実行しています。
これは全く悪い事では有りませんし、そういった気持ちが無いと世の中円滑に回っていきません。
しかし、この「自分へのルール」を、そのまま他人にも求めるととても辛い事になります。
何故なら他人は自分のコントロール下には無いからです。
笑って欲しくても語気に気を付けて欲しいと願っても、そうするかどうかはこちらが決められる事ではないのです。
ですから他人の表情や機嫌を気にし出すと「私が何かした?」「言いたい事が有るのなら言えば良いのに」という疑心や不安を感じやすくなります。
更には「あんなに顔に出して本当幼稚だな」と責める気持ちや罰したい気持ちが生まれてくる事も有るでしょう。
この感情で苦しむのは誰でしょうか。
他ならぬ本人です。
ですから、他人の機嫌や顔色を気にするのは自分を苦しめるだけです。
接客業や営業職でもないのに間違っても「ねぇ。もっと笑えないの?」などとは言ってはいけません。
自分以外の他人が笑っていようが仏頂面をしていようが、そんなことは他人の勝手なのです。
自分の為に感じ良く居て欲しいなどという望みは捨てた方が楽です。
自分だって相手にとってベストな振る舞いをしているとは限らないのです。
抗議をするのは「ハッキリとアクションを起こされた場合」だけにしましょう。
つまりは機嫌が悪いからと無視をする、声を荒げる、暴言を吐く、執拗に絡んでくる、決められた仕事を放棄する、などです。
これはあなたに対して取られたアクションですから、そこには抗議をしても良いのです。
何と言ってあげるか
もし、私がこの先このような人に遭遇する事が有ったら、こう言いたいと思っています。
「偉いね」
「しんどくても毎日仕事に行っているんでしょう?生きていく事を最優先出来ているからだよ。それは大人として一番の優先事項だよ。自分を生かしていく責任を一番優先出来ているんだから、何が幼稚なものか。偉いよ!」と。
「え、そんな事言ったら更に酷くならない?」と感じる方も居ると思いますが、先述したように、機嫌や体調がダダ漏れになるタイプの方々は、自分自身の振る舞いにガッカリしています。
自己卑下や自己嫌悪は人を孤独にします。
孤独を感じると周りは誰も理解してくれない、私は嫌われているに違いない、という認知の歪みを生み出します。
それは周囲への敵意に変わっていきます。
そこをどうにか出来るのは、杓子定規なお説教でも、理想の大人たるやなんたるかを語る事でも有りません。
「ただ存在を肯定してあげること」なんです。
自分が社会の規格外の人間なのではないかと感じている人というのは本当に多く、その一人一人に独立した苦しみや葛藤、寂しさが有ります。
私はたまたま自分が感情の波が激しい規格として生まれたのでこう思えるだけですが、これを読んでくださっているあなたにも、「あなただから理解してあげられる誰かの苦しみ」が有る筈です。
そして、私もあなたも、誰もかれも全員が、誰かに許されて生きています。
「いつもニコニコしているけれど嫌われ役を買う事も発言をする事もしない人」「場の空気を最優先して言うべき事を言えない人 」は、誰かが嫌われ役を買う事でそう在り続ける事が出来ています。
逆に、「ハッキリと物を言いすぎる人」は、誰かが反論せずに飲み込んでくれているからそう在り続ける事が出来ています。
皆、例外無く誰かに許されています。
そしてあなたも誰かを許してあげている筈です。
「自分ばかりが許す側」
「自分ばかりが許してもらっている側」
そのどちらも有り得ないんです。
そう思えると、周りに居る人がどんな在り方であろうがそれはその人の自由だと思えてきます。
そして、自己嫌悪に陥っている人だって、誰かが引き受けない役目を引き受け、誰かを許して生きている一人なのだと解って欲しいと思います。